久々にまともに読書(など)をした。
ここしばらくの間はさまざまな障壁により時間的にも精神的にもいっぱいいっぱいで、情報を咀嚼する力が落ちていた。脳内に溜め込むものが多すぎてオーバーフローしたのだと思う。
一遍通りの生活のために割くリソースと、注意力や創作その他諸々につながる想像力はトレードオフだ。元がアレなのでこんなことを言うとさらにアレなのだけれど、アレがアレなので仕方がない。
今回は、読んでいたもののうち、年末に友人からプレゼントしてもらった2冊について記しておく。
最果タヒ『天国と、とてつもない暇』(歌集)
2018年に刊行された歌集。当時は最果タヒをTwitterでフォローしており、作品をリアルタイムで観測していた。iPhoneのメモ帳に詩を書き連ねるキャプチャ動画がバズっていたような気がする。
何度も読み返すと、どの詩も毎日感じ方が変わるような気がした。印象に残る詩が毎日違う。これはどういうことなんだろう。
誤解を恐れず正直に言うと、難しかった。読む度、何かを取りこぼしてしまっているような気がして仕方ない。ことばからイメージがうまく浮かばない。でもたまに光が見える瞬間がある。それが印象に残る作品で、日毎に移り変わる。
このひとの詩は、光、見る、像、孤独、静寂、ガラス、そんな感じがする。でもただきらきらして近づき難いというわけではない。
他の作品もちゃんと鑑賞すべきなのだと思う。この作品を好きな人が、この作品から感じ取ったものを表現したものがあったら、それにも興味がある。
読み返し直して、言葉で表現できるものをつかみたい。
住野よる『この気持ちもいつか忘れる』
実は住野よる作品を読むのは初めてだった。ちょうど読まなかったんだよな。作品名はほとんど知っているのに全く手をつけていない作家は他にはいないなと気づいた。
これは真っ向から「恋愛小説」なので恋愛小説として読みそして感想を言える! ありがたいこと(?)。
普通とか変わってるとかの評が特段意味を持つことはほとんどないということは置いておいて、これは「特異な2人の会話劇」だと感じた。物語が切り取るシーンとして、そこがちょっと変わっている。
描写や台詞が説明的で恣意的で、だからといって演劇的なレールの存在を感じるわけでもなく、等身大らしいのに、読んでいるこちら側との壁を感じる。彼ら彼女らが読者とは違う存在であることを主張するかのように言葉が連なっていて、新鮮だった。
「小説ってこうだったっけ」と思いながら読んだのは、単に私が日本の現代小説を読むのが数年ぶりだっただけなんだと思う。もっと読みたい。小説を。
あとなんかこう、全体を通してぼんやりと嬉しい感じというか、心地いい感じがした。恋愛に半歩踏み込んだ時の妙にふわついた気持ちのことが割としっかりめに言葉で描写されているのがいい。主人公が「揺れ」に気づき始めてから確信するまでの変化がだいぶはっきりくっきり描かれているのが痺れるな〜と思った。でも正直、こんなに「分かる」ものなの!? とびっくりもした。どういう意味か、はっきりとは書きませんが……
私でない皆さんの恋愛ってどんななんでしょうか。おそらく、楽しくも苦しく、実際ぱっとしないものなんだろうと想像します。
場合によっては独占や支配の欲求を生んだり、思考が余計な自蔑へ向かっていったりもする。恐ろしいことでもあるはずなのに、それでも他人に受け入れてもらう期待をするのをやめられないということ。私はそれ自体を想像しただけでもう苦しくなる。相手が人だから余計、苦しい。
例えば高校生なんかは裏切りとか別れとか、そういう湿っぽい類の環境の変化に対する耐性が弱い。流動性の低い教室の中で日々を過ごす中で、「所属」を否が応でも意識させられ続けるからではないかと思う。レスポンスの有無とかの、些細な変化、とも言い難い不確定性が、大きな意味を持って/持たされてしまう。教室の外での出来事だとしても、同じこと。そんな状態で醸成された感情に何十年も囚われてはつらい。
私たちはみんな忘れながら生きていくという事実にいつ気づくのか、その気づきとどう折り合いをつけていくのか、私は、社会を関わりを持ち続ける上でそれが本当に大事だと思う。
恋愛で悩む人を、それを理由に見くびったりするわけはないのですが、私の周囲にいる、またはいた人たちの中にそういう「知らない」状態の人たちがどれだけ存在しているか、という考えても仕方のないことが気になる瞬間がある。そしてどうやってその状態を抜け出して大人になっていくのか。
対して、私は一体なんなのか。何? 本当に。私はどうしたらいい?
いい感じに苦しくてすっきりする作品でした。薦めてくれて本当にありがとう。