すいかジュース探そう

こんにちは〜

下書きを公開してみますよ

先月末に残していた下書きですよ

 

 

 

 

 

 

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商業施設の壁が、スマホみたいに片手で持てるようになった。

 

すぐに5月になりますね。5月の日差しは意外にするどい。5年前からずっとそうだ。あるいはその前から。うちの洗面所は狭くて蒸し暑くて鬱陶しいけれど、日焼け止めをきちんと塗るぞという決意があります。

 

 

少し前、会話がすごく上手なひとに会った。

初対面で歳が3つ離れていた。私自身は歳の差とかを気にする質ではないが、学校という場にはそうでない人のほうが多い(という肌感)。相手は私の話したことにすかさず反応を返して、質問や提案をして、互いの情報を引き出す流れを作って、すごかった。飾らず屈託がないってこういうことを言うんだろうか。名前を聞きそびれたけれど今度また顔を合わせる機会があるはずなので話したい。こんな風にひそかに憧れる人がたくさんいる。

 

そういえば、私は会話を円滑にするために「雑魚のふり」をすることが多い。半分無意識的で、でも思い返すとやっぱり演じている。自分を小さく見せるために、ちょっと落ち着きがない風を装う。元から小さいのがバレないようにするためか、学生時代のコンプレックスの反動か分からない。土俵から降りたいのかもしれない。コミュニケーションだけでなく容姿もそう意図して変えていた。

そういった無意識的に自分を卑下する行為には意味が無いと実体験を通してはっきりと学んだので、つい最近になってから自分のなりたいようになるぞという心持ちになった。他人に邪魔させるほど人生に時間の余裕はないなと考えるようになった。

 

 

 

先の容姿の話について。

「土俵」と書いたが、それ以外の適当な表現は果たしてないのだろうかと思う。「市場」でもない。私(たち)は試合をしたいわけでも、売り物でもない。

「降りている」ことを態度で主張しているつもりでずっといたが、そう理解してくれない人もそこそこいる。こう言っちゃ悪いけれども、そういう人たちは相手を慮ることの何たるかをあまり知らないのだろう。私は大抵、最初から切り捨てた対応をするのではなく「身をもって理解してもらう」という方法を取っていた。取ろうとしていた。それは私なりの誠実さの表現だった。

結果的に言えば、私は人の誠実さのポテンシャルに期待し過ぎていたと思う。彼ら彼女らが私のことをあまり知らないのに段階をすっ飛ばすのと同様に、私も彼ら彼女らのことをよく知らないのに、知らないが故の疑いを向けながらも同時に期待していた。その期待が全く無駄になるケースだけではないけれど、勝手に信じようとした挙句に失望するのは私が責任を負うべきところでもある。見下すのが勝手であれば、傷つくのもまた勝手なのだ。

 

とはいえ別個の嫌悪感とか怒りとか、なかなか忘れられるものではない。思い出すたびに強化されて、踏み荒らされたような気持ちになって、たぶん誰にもわかってはもらえないと思う(同じ属性・性質自認の人だとしても)(私が私であることは属性や諸々の性質によって決定することはない!)。

すべての生命は余さず他人だから、仕方ないのだ。迂闊な発言だって、一度だとしても厳しい目で見なければいけなかった。自分のことを被害者だと思って悲愴に浸るのは実にかんたんな感情の自涜であるので、私もみんなも、できるだけやめたらいいとおもう。

そういう気持ちを携えて、適切な自己開示と、その時時にそうありたいと思う像を装うことの練習を、積み重ねています。