すいかジュース探そう

こんにちは〜

現代理想臨時増刊号

ゴ〜流伝ウィークが終わる!

 

甘〜い

これひと口食べた後だな。

今日のことではないですが、7年越しの集まりをやりました。もう7年も前!? とかいうやり取りを私もするようになった。

 

爽やかでありがたい眺め。ありがとうございます

人と会う前に公園に行った。風が強すぎる! こんなんじゃお話にならないよ、と思った。Twitterスペースをやりたかったのですが強風のせいで雑音が入りすぎて不可能だった(実家に滞在中なので外出時でないと喋るやつができない)。

公園の近くの上り坂を駆け上がる中年男性がいた。脚力がすごい。他にもジョギングに来ている高年とおぼしき男性複数、あまり見ない犬種(バムとケロのバムみたいな犬がいた)を連れている人々、風に負けずにボール遊びをする子供たちで賑わっていた。なんか、そういう雰囲気の街だなと思った。一方の私はこのままでは風に吹かれてくちゃくちゃになってしまうと思いすぐ立ち去ってしまったけど、広くて良い公園なのでまた行きたい。

 

 

連休中にちょっと考えたこと、というか考えざるを得なかったことを。

 

私は「人を不快にさせることを目的とした言動」を絶対に許さないと心に決めているのですが、この場合において「許さない」という態度は結局何を意味するのか、という問題がある。

私が許さなかったからといってそういう害の元を撲滅できるわけではない。批判されるべき態度に対して拒絶の意思を表し厳しく当たるのが答えかといえば、常にそうとは限らないし、そんなこと続けられるわけがない。歩み寄ろうと建設的対話を試みても、意思疎通自体不可能なことだってある。というかそんなことばっかりだ。人を不快にさせて気分良くなってる奴なんて、所詮腐った魂の持ち主なのだ。言語が意味をなさないのも当然である(暴言を吐いてすみませんが、本当にそう思っています。私は正直者です)。

 

立場としては許していないが、そこで「許さんぞ!」と主張してもなんのメリットも見込めないとき、しょうがないから傍若無人野郎の要望だけは叶えてあげる、という事態が発生する。つまり存在自体は受容しているということ。「そんな態度とるなら出て行け」とか言わない。というかそんなこと言うのもおかしいからね。

するとどうなる? 人に非ざる振る舞いをしてもその場ではさして問題にならないということになる! そいつがいくら嫌われようが、人間ひとりひとりが遂行すべき社会活動の成立のために、被害を受けた側が自らを犠牲に選ばざるを得なくなる。

おいおい、おかしいだろ。世界は暴れたもん勝ちなのか? とんでもないことだよ。早く法で裁いてくれ! 私は私のルールに則ってお前を受け容れるが、お前はお前の気まぐれで私を軽んずる。対象が私でなくたって一緒だ。ストレスの増幅器のスイッチを入れるな。人の感情をかき乱していいのは人が人を強く強く大切に思うときだけなんだよ。瑣末な苛立ちを種にして人を悲しませるんじゃないよ。

悲劇を生まないためには、「許さない」という態度が導く正解を定義する必要がある。やっぱり「排除」か? 理想を実現したいと思ったらまず排他的にならざるを得ないのか? 許せないと思ったら、その度懇々と説教をしたらいいのでしょうか。改心させるまで罰を与えればいいのでしょうか。そんなの無理ですけどね。

 

という経緯があり、人間社会とは原理的に不幸を解消することのできない機構なのだという結論に落ち着いている。経済格差を容認する主張と構造は似ている(と思う)。

似た者同士は寄って生活していればいいと思う。一時的な発作ならその場しのぎで問題ないわけだし(繰り返すから厄介なんですが)。私はその世話に価値を見出さない。これが私の「許さない」の意味です。誰かを救う必要があれば話は別だけど、何より大事なのは自分に他ならないし、労力は無駄にしないと決めている。

 

ちなみにですが、人を不快にさせたいという動機でなくても「人が持つべき権利を蔑ろにする」「人を不快にさせる可能性が高いことが容易に想像できるはずなのに、それをやる」のも私個人は許しません。リテラシーの問題も絡むところではあるけど、人は学ぶことができるので。

なんでこんな話をしてるんだ。そもそもどうして私がこんなに強情になったかといえば、自分の心の不可侵領域をどうにかして守らなければ気を狂わすような危機的状況にいると気づいたからだったのですよ。私は私の時間を無駄にしないために殻を分厚くした。今度から私のことはヤマアラシだと思え。突破しようとしたって無駄です。気軽に寄ってこないでください。

針はたまに自分にも刺さる。本当は私が苦しむ必要なんかないのに……。

 

 

 

あともう一つ言いたいことがあった。

 

 

 

ネトストは、やめてね

 

 

理由なんか言わないぜ

 

 

 

 

(追記)

世界を信じていないから、まだ見ぬこれから出会う人全てを極悪人だと思っている。それに一時は仲が良くてもしばらく連絡を取らなければそのスタートラインと同じところまで心理的距離は広がっていく(これは本当にひどい話で、全面的に私が悪い)。だけど当たり前に実際はそんなことはなく、友人は人の目を見て質問を投げかけてくれるし会話は心地よいテンポで成り立つし一緒にいる人を楽しませようとする。こんなに素晴らしいことがありますか? みんなまともだ。まともだとはいっても理屈でなく感情で人の扱い方を決めているだけかもしれないけれど、そうだとしても他人と自分の区別がきちんとついている。そのうえで他人と関わる。当然かもしれないがこの常識が共有され得ない空間が世の中にはたくさんあり私がいる所もまたそのひとつなのだ。

蔑ろにされてよい人などいないと信じることで私は私を保っている。そうでなければどこにも進んでいけない。だけどそう信じるのにも体力と精神力が必要で、生きるための財源がどこからきているのか思い出すたびにどこか別の場所へ帰りたいとどうしようもないことを思う。

私は余計に傷つきたくないし人を傷つけたくもないので人と深く関わるのを避け続けているが、いくら一人の時間を持とうが根本的な問題は改善されないことは分かりきっていてもう流石に限界っぽいので、新しく帰るべき場所というものが欲しくもなってきた。帰ってもよい場所。所属ではない関わり合い。だけど今更そんなものを作り出す努力ができるほど前向きにはなれないんですね。まあそもそも友達とかなんとかいうものをもっと気軽に考えればいい話ではあるんですが、事情を理解してもらいたいという欲が出てくるのは目に見えているので、それを考えるとどうにも気が引ける。

許せねー! 断ち切るほうが先ならどうにか、と思うがそんなのは非現実的だ。無視できない繋がりの放つ腐敗臭が私の足枷となっている。無理だ無理だ。考えたって無駄なので無心になるべき。

どうにかして助からないかな。救うとかではなく、なんかこう掬い上げるくらいの感じのやつで。こんなことでもう泣きたくないんだ。

他人と比較することに意味はないのは分かっているから誤解されるような言い回しは避けますが、私は本当にうまくやっていると思う。あなたのことが心配だから無理しない程度に頑張ってねとか言われても素直にありがとうと返せるのだから偉い。安心して帰る場所がある人が私の何を心配できるのかと思わないでもないのに。これは理性だ。私が何にどう苦しんでいるかなど私以外知るよしもないのだから、それゆえの理性。仕方のないこと。

何かを待っていてもそれこそ仕方ないですね。私は私にできることをやります。何かしらの方法でどこかに助けを借りながら。余計なものには手を出さないほうがましです。

 

 

(追々記)

帰る場所を失うのと帰る場所で圧を受けなければならないのとは別です