すいかジュース探そう

こんにちは〜

ワニです

どうもこんにちは。ワニです。

 

今日は山の日だったワニね。

みんなは山に登ったワニか?

ワニは部屋でコーヒーを飲んでいたワニよ。

 

家族が旅行に行ってきたようで、お土産をたくさん買ってきてくれたワニ。

うれしいワニね。

 

 

ところで、

 

 

 

 

 

みんなは好きな食べ物ってあるワニか?

ワニはカボチャが好きワニ。

カボチャは夏野菜だけど、一番甘くておいしいとされるのは秋なんだワニね。

カボチャは腐ると茶色い汁が滲み出てくるワニ。

腐る前に煮たり焼いたりして食べるのがいいワニね。

 

 

ところで、

 

 

 

 

 

みんなは最近よく眠れてるワニか?

ワニは眠りが浅いタイプなんだワニ。

1ヶ月くらい前から家の冷蔵庫がブーーーーーーーーン言う音がうるさくて、夜なかなか寝付けなくてワニねえ……

ブーーーーーーーーン……ブン……ブン………………

ブーーーーーーーーン……ブーーーーーーーーン………………

……………………ブーーーーーーーーン……ブンゥンゥンゥンゥンゥン…………

ゥン…………………………と鳴り止んだ隙に眠るワニね。

夜中の睡眠よりも朝二度寝した時のほうがよく眠れるみたいなのは、

 

 

やっぱりあるあるワニよねえ!

 

 

ところで、

 

 

 

 

 

暑いワニね。

台風も大変ワニ。

ワニは幸運なことに被害を受けていないワニ。

熱中症にも水害にも、気をつけてワニね。

 

 

 

 

 

ワニでした。

 

ワニワニ〜

明日乾く

近所にいい道があるんです

こんにちは。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今日は百均に用事があったので外に出た。まあ用事なんかなくても普段から外には出てますが。

なんか目が覚めた瞬間から背中の真ん中のところから指先まで生温い水を含み切ってしまったみたいに体が重く(数日前にぬいぐるみを洗ったからそういう「念」かも)、スッと起き上がる気になれずに時間をロスしてしまったしゴミ出しも諦めた。そういう日か、がんばらなきゃいけないのに、と思って、黙々と作業するより先に外出することにした。

雨だから道端の花がしぼんでいて、点描みたいで綺麗かもねと思った。

 

そのあと帰ってきて電話をかけたり課題をやったり折り返しの電話をとったり水を飲んだりした。楽しいと思える場面が少なくて、落ち着くためにできることが水飲むくらいしかない。

 

今はオンライン講義を聞き流しながらこれを書いている。そんなことするべきじゃない。でもこうでもしてこの澱み切った気分の膿を早めに出し切ってしまわないと明日以降にひびいてどうにもならなくなるかもしれず、こわいので文字という形にして外部化して追いやってしまう。

 

ここ数日なんかやけに荒んでいる。今日は特に。

雨が降ったり止んだりの天気にも「つまんねえ奴がよ」と思って、びっくりした。どういう意味? 普段はそんなこと考えもしない。

朝の時点から変だと思ったんだ。たぶんストレス由来のやつなんだと思うけど、正直そんなのはやめてほしい。ストレスで調子が出なくてさらに切羽詰まった状況に追い込まれるのは他でもない私なのだから。

焦る焦る。焦るとは言っても目の前のことを一つずつ着実にぶっ倒していくというようなことが私にはできない。なぜなら成功するかどうか見立てのつかない物事がこわいから。どうしようもないやつ。

今日はもうどうにもならなさそうだから早めに情報をシャットアウトして休む。数人から連絡が来ているけど急ぎじゃないので明日以降に対応する。それで明日は本当にテキパキする。

 

LINEとかメールとか、連絡は基本的に割とすぐ返す習慣がついてたんですが、どうしてもすぐに返せないタイプのものがある。なんというか、嚥下できないのだ。日を置いてえぐみにようやく慣れてきた頃にやっと返せる類のメッセージを送ってくる人がいて、何年経ってもその性質が変わらない。これは一体どういうことでしょうか。

 

私は朝という時間帯に元気でいられることが少ない。目が覚めてしまった、と思う。別に目を覚ましたくないと思って眠るわけじゃないんだけど、一日が始まるなあと思うと、私一人の力ではどうにかなることなんてほとんどないよな、という思いがまず浮かぶ。

最近それが顕著で、健康的じゃない。あとは食欲も湧かなくなってきていて、ちょっと危険だなと思う。なんとなく中断してしまっていた薬を再開しようかなとも考えたけど、そういえば離脱症状の逆のやつがあるんだった。飲み始めの副作用として、悪心など。さらによくない。

 

ネガティブなことばかり書きたいわけじゃないんだ。書くこと書かないことはちゃんと選んでいる。とにかく私がありのままであった証拠を残すためのブログだと思っているから、これでいい。

 

明日は天気いいらしい。起きたらまず掃除と散歩でもして切り替えられるといい。

現代理想臨時増刊号

ゴ〜流伝ウィークが終わる!

 

甘〜い

これひと口食べた後だな。

今日のことではないですが、7年越しの集まりをやりました。もう7年も前!? とかいうやり取りを私もするようになった。

 

爽やかでありがたい眺め。ありがとうございます

人と会う前に公園に行った。風が強すぎる! こんなんじゃお話にならないよ、と思った。Twitterスペースをやりたかったのですが強風のせいで雑音が入りすぎて不可能だった(実家に滞在中なので外出時でないと喋るやつができない)。

公園の近くの上り坂を駆け上がる中年男性がいた。脚力がすごい。他にもジョギングに来ている高年とおぼしき男性複数、あまり見ない犬種(バムとケロのバムみたいな犬がいた)を連れている人々、風に負けずにボール遊びをする子供たちで賑わっていた。なんか、そういう雰囲気の街だなと思った。一方の私はこのままでは風に吹かれてくちゃくちゃになってしまうと思いすぐ立ち去ってしまったけど、広くて良い公園なのでまた行きたい。

 

 

連休中にちょっと考えたこと、というか考えざるを得なかったことを。

 

私は「人を不快にさせることを目的とした言動」を絶対に許さないと心に決めているのですが、この場合において「許さない」という態度は結局何を意味するのか、という問題がある。

私が許さなかったからといってそういう害の元を撲滅できるわけではない。批判されるべき態度に対して拒絶の意思を表し厳しく当たるのが答えかといえば、常にそうとは限らないし、そんなこと続けられるわけがない。歩み寄ろうと建設的対話を試みても、意思疎通自体不可能なことだってある。というかそんなことばっかりだ。人を不快にさせて気分良くなってる奴なんて、所詮腐った魂の持ち主なのだ。言語が意味をなさないのも当然である(暴言を吐いてすみませんが、本当にそう思っています。私は正直者です)。

 

立場としては許していないが、そこで「許さんぞ!」と主張してもなんのメリットも見込めないとき、しょうがないから傍若無人野郎の要望だけは叶えてあげる、という事態が発生する。つまり存在自体は受容しているということ。「そんな態度とるなら出て行け」とか言わない。というかそんなこと言うのもおかしいからね。

するとどうなる? 人に非ざる振る舞いをしてもその場ではさして問題にならないということになる! そいつがいくら嫌われようが、人間ひとりひとりが遂行すべき社会活動の成立のために、被害を受けた側が自らを犠牲に選ばざるを得なくなる。

おいおい、おかしいだろ。世界は暴れたもん勝ちなのか? とんでもないことだよ。早く法で裁いてくれ! 私は私のルールに則ってお前を受け容れるが、お前はお前の気まぐれで私を軽んずる。対象が私でなくたって一緒だ。ストレスの増幅器のスイッチを入れるな。人の感情をかき乱していいのは人が人を強く強く大切に思うときだけなんだよ。瑣末な苛立ちを種にして人を悲しませるんじゃないよ。

悲劇を生まないためには、「許さない」という態度が導く正解を定義する必要がある。やっぱり「排除」か? 理想を実現したいと思ったらまず排他的にならざるを得ないのか? 許せないと思ったら、その度懇々と説教をしたらいいのでしょうか。改心させるまで罰を与えればいいのでしょうか。そんなの無理ですけどね。

 

という経緯があり、人間社会とは原理的に不幸を解消することのできない機構なのだという結論に落ち着いている。経済格差を容認する主張と構造は似ている(と思う)。

似た者同士は寄って生活していればいいと思う。一時的な発作ならその場しのぎで問題ないわけだし(繰り返すから厄介なんですが)。私はその世話に価値を見出さない。これが私の「許さない」の意味です。誰かを救う必要があれば話は別だけど、何より大事なのは自分に他ならないし、労力は無駄にしないと決めている。

 

ちなみにですが、人を不快にさせたいという動機でなくても「人が持つべき権利を蔑ろにする」「人を不快にさせる可能性が高いことが容易に想像できるはずなのに、それをやる」のも私個人は許しません。リテラシーの問題も絡むところではあるけど、人は学ぶことができるので。

なんでこんな話をしてるんだ。そもそもどうして私がこんなに強情になったかといえば、自分の心の不可侵領域をどうにかして守らなければ気を狂わすような危機的状況にいると気づいたからだったのですよ。私は私の時間を無駄にしないために殻を分厚くした。今度から私のことはヤマアラシだと思え。突破しようとしたって無駄です。気軽に寄ってこないでください。

針はたまに自分にも刺さる。本当は私が苦しむ必要なんかないのに……。

 

 

 

あともう一つ言いたいことがあった。

 

 

 

ネトストは、やめてね

 

 

理由なんか言わないぜ

 

 

 

 

(追記)

世界を信じていないから、まだ見ぬこれから出会う人全てを極悪人だと思っている。それに一時は仲が良くてもしばらく連絡を取らなければそのスタートラインと同じところまで心理的距離は広がっていく(これは本当にひどい話で、全面的に私が悪い)。だけど当たり前に実際はそんなことはなく、友人は人の目を見て質問を投げかけてくれるし会話は心地よいテンポで成り立つし一緒にいる人を楽しませようとする。こんなに素晴らしいことがありますか? みんなまともだ。まともだとはいっても理屈でなく感情で人の扱い方を決めているだけかもしれないけれど、そうだとしても他人と自分の区別がきちんとついている。そのうえで他人と関わる。当然かもしれないがこの常識が共有され得ない空間が世の中にはたくさんあり私がいる所もまたそのひとつなのだ。

蔑ろにされてよい人などいないと信じることで私は私を保っている。そうでなければどこにも進んでいけない。だけどそう信じるのにも体力と精神力が必要で、生きるための財源がどこからきているのか思い出すたびにどこか別の場所へ帰りたいとどうしようもないことを思う。

私は余計に傷つきたくないし人を傷つけたくもないので人と深く関わるのを避け続けているが、いくら一人の時間を持とうが根本的な問題は改善されないことは分かりきっていてもう流石に限界っぽいので、新しく帰るべき場所というものが欲しくもなってきた。帰ってもよい場所。所属ではない関わり合い。だけど今更そんなものを作り出す努力ができるほど前向きにはなれないんですね。まあそもそも友達とかなんとかいうものをもっと気軽に考えればいい話ではあるんですが、事情を理解してもらいたいという欲が出てくるのは目に見えているので、それを考えるとどうにも気が引ける。

許せねー! 断ち切るほうが先ならどうにか、と思うがそんなのは非現実的だ。無視できない繋がりの放つ腐敗臭が私の足枷となっている。無理だ無理だ。考えたって無駄なので無心になるべき。

どうにかして助からないかな。救うとかではなく、なんかこう掬い上げるくらいの感じのやつで。こんなことでもう泣きたくないんだ。

他人と比較することに意味はないのは分かっているから誤解されるような言い回しは避けますが、私は本当にうまくやっていると思う。あなたのことが心配だから無理しない程度に頑張ってねとか言われても素直にありがとうと返せるのだから偉い。安心して帰る場所がある人が私の何を心配できるのかと思わないでもないのに。これは理性だ。私が何にどう苦しんでいるかなど私以外知るよしもないのだから、それゆえの理性。仕方のないこと。

何かを待っていてもそれこそ仕方ないですね。私は私にできることをやります。何かしらの方法でどこかに助けを借りながら。余計なものには手を出さないほうがましです。

 

 

(追々記)

帰る場所を失うのと帰る場所で圧を受けなければならないのとは別です

凪ぎ逃げ

歩いてる



 

もうずっと頭が砂漠状態だ! 新しいことを何も思いつかないし情報を咀嚼することも難しい。言葉もうまく浮かばないので文章を書くのがめちゃくちゃ遅くなっている。

理由はほとんど分かり切っていて、全然人と会わない、会話していないからだと思う。予想外のことが全くと言っていいほど起こらない4週間を過ごした。刺激が極端に少ないとこうもパフォーマンスが落ちる。

周囲に知り合いが全くいない状態で始まった新生活は、ただただ運の悪さと私の怠け癖のせいで成功とも失敗ともつかないヌルヌルとした滑り出しとなった。所属先はあれど、結びつき(といっても決して大袈裟なものではなく、「私はあなたのことを知っていて、あなたも私のことを知っている」程度の)を肌で感じるような場を私は持っていないのだと痛感した。アウェイな状況自体には基本的に耐性があるのに、「私を認識し」ている人が増えない、あるいは顔を見て表情を確かめながら時間の流れを共有しながらコミュニケーションを取れないというのがこんなに辛いのかと思った。

 

ちょっと話が逸れますが、私は話している相手の表情があまり変わらないと不安になる。あと目をめちゃくちゃ見る。私や私との会話に興味を持っている視線なのかどうかが気になるから。表情や視線をよくよく見て「なんか違うな」と一度思ってしまうと、その後はどれだけ言葉を投げかけても相手には届かない気がして諦めたくなってしまう。そうでない場合との違いはまだうまく言語化できない。

いや、どうだろう。視線じゃないかも。目を逸らして話す人とでも全然楽しくやれる。私は一体何に違和感を感じてるんだ。「この人私のこと見てないな」という感覚は確実にあるのだけど、それだってこちら側の勝手な想像に過ぎないという可能性も大いにある。

例えばの話。「あなたのことが本当に大事で心配で、具合を悪くしたと聞いたら居ても立ってもいられないくらいです」みたいにアピールしてくる人が見せる態度や表情、使う言葉、投げかけてくる質問が残念なことに「なんか違うな」という感じだった場合が一番厄介だ。互いの意図の噛み合わなさが最大まで振り切ってしまい、届かない、受け取れない、快でないコミュニケーションが出来上がる。

現在進行形かは置いておいて、こういうことは実際にある。なんとも切なく迷惑な話だ。本当に疲れる。疲れるからそれを避けるために相手を見極めようとしてしまう。すみません。でも見極めたところで断れなければ意味がない。私は断れたことがない。

結局、整合性かもしれない。あと適度に想像することと察すること。求められてないことはむやみにしない。なんでもありがたがるのは良くない。思い上がらない。肝に銘じたい。

 

さっきアド街ック天国を見てたんですが、紹介したまちの風景を100カット連続で映すという新コーナーをやっていて、これがすごく良かった。昔やってた女性を映しまくるやつの6000倍良い。その町のことがより好きになる。どこでも見れるような風景も、すべてが連なって全景を作り出す。なんでもないものほどたくさん見たいような気がする。

最近よく散歩をするから、道端の生き物(植物を含む)や人が連れ歩く様子をよく観ている。散歩中の犬がたんぽぽが気になり始めてそこから動かなくなり飼い主を困らせているのとか、移り住んだ先で見かける鳩は見知ったそれよりも痩せていることとか、出会ってから日がまだ浅いであろう大学生たちが連れあってなんでもない風景を写真に収めているのとか、そういう自分の外側で起こっている出来事を観測することで自分が景色の一部になれる感覚がある。世界の時の流れと自分は共にあるのだということを確認できる行為、それが散歩。

 

あまりの「何も無さ」に耐えかねて実家へ逃げ帰ってきたところなので、なんとかして気分も脳みそも復活させていきたい。出歩きたいし勉強もする。とりあえずサーティワンの50周年フレーバーをクリアしに行きます。

キャバリアみたいな犬を見た

♪ o(^o^)o ♪

他には『Na・de・Na・deボーイ』などを入れています♪ あとはなんかフォロワーの方に薦めてもらって気に入ってるやつとか。現状であんま好きじゃないと思ってるもの以外、新しいものを薦められたらだいたいなんでも好きになれる。

 

3日前の夜、投稿しようとしてやめた下書きがある。

(出処も行き着く先も不明な不安の列挙、1000字超)

昼間からずっと喉が痛いし、なんだか肌寒い気もするので早めに寝ようかな。これで風邪でもひいてたらどうする? どうもこうもないか。どうしようもない。

とのことでしたが、翌日本当にしっかりと発熱し、寝返りも意識的にできなくなるほど具合が悪化しました。昨日家でコロナの抗原検査を試したら案の定陽性反応が出た。正直どちらかというとインフルっぽいなと思っていたけれど。

先述の下書きに書き連ねた文章がちょっとあまりにもメンタルに不調をきたしている人の言葉すぎて、笑っちゃうほどだったので記念として消さずに残しておいた。体調がこんなに分かりやすく影響するものなんだ。ワクチン接種後の副反応以外で体調を崩すのが8年ぶりくらいだから、なんかちょっとウケてしまった。

熱はもう下がって日中起きていられる程度なんですが、高熱が出ている間は3月31日放送の『いないいないばあっ!』を見て泣いたり、ぽぅぽがネットで叩かれまくっているのを見てさらに泣いたりしていた。叩くな。叩いてどうなるんだ。叩くくらいならちゃんと見ろよ。「大ベテランの後釜の自覚」ってなんだよ。ツイッター上の発言とはいえいくらなんでもキモすぎるよ。ワンワンのこと大好きです。

 

早く調子を戻さなきゃいけないので適当に。

・体調が悪い自覚がまだないタイミングで近所を散歩した。土地勘をつけなきゃいけないから。そしたらキャバリアみたいな犬を見た(←『花束みたいな恋をした』みたい)。厳密にどれかは分からないけどスパニエル系のやつで、道で見るの初めてかも! と嬉しくなった。

・今回越してきた街はデカい車も自転車も車道をブンブン通る。道を把握できないうちは自転車に乗るのはできるだけやめておこうと思った。

・3月は短歌のやつができなかった。考えたやつはあった。できるだけ継続したい。そういえば2回目に出したやつはここに載せてなかったのでついでに画像を貼っておきます。

六首連作<漸進> - 二〇二三年二月二十五日土曜日

・自分で気に入ってる表現をさ〜 仲良くなりたい人に褒めてもらったときってうれしいですよね!

・わかるわかる。

・そうだよね!

祈り気取り

すいかジュース見つけた!

フォロワーさんにおすすめしてもらったやつを見つけました。次は180mlのを探して買います。見つけたらまた報告します!

 

つい先日大学を卒業いたしました。私はイベントごとに関してあんまりあれこれ思わないたちなので感想という感想は特にないんですが、当日は朝から晩まで、知っている人も知らない人もみんなニコニコしていてうれしかった。一緒にいる人が笑っているとうれしい。それが一番。

ただ、学位記を授与された後の学科長の言葉がとても心に残ったので、そのことだけははっきりと書き残しておきたい。引用はしませんが。

経験の多さに伴う年の功というのを私は信じていて、先生の話す言葉にはそれが滲み出ていたように感じた。(他の先生も含め)先生方の授業を受けながら「おじいちゃんめ……」と思うことは多かったけれど、彼らのように生きることができれば本当に楽しいだろうなと羨ましくもあった。それは私たちに送られた言葉の通りに研究し、生活してきたからなのだろう。

人生を貧しくしてしまわないために覚えておくべきことを餞とするなんて、なんて素敵なんだろうと思った。同時に、これは祈りだ、とも思った。こんな祈りに触れる機会が今後増えていくのだろうかとぼんやり考えた。

 

以下は私自身の話。

私は、生きることとは祈りであり、それすなわち愛である、と本気で信じている。そして私が実行できる愛の形は未だそれのみである。

例えば、遠く離れた場所に住む友人が誕生日を迎えたとき。「良い一年にしてね」はちょっと無責任かなと考えて、思案した挙句「できるだけ心おだやかに健康に過ごせますように、うれしいことが多く起こりますように」とかいう回りくどいメッセージを送ることになってしまう。でも、どうやっても遠くの他人にしかなれない私が大切な友人のためにできることといえば、祈ることくらいしかないのだと思う。

どれだけ何かしてあげたいと思っても、物を送ったとしても、相手が今現在どんな事情を抱えているかは知り得ないことが多いし、関係性を見誤って出しゃばるなんてことをしてしまうのは愚かだし、だから、相手を大切に思う気持ちを可能な限り曲げずに昇華させる方法は、祈りなのだ。

自分にできることの限界を知り、諦め、それでもただ生きていてほしいと思うから祈る。もちろんもっと具体的な祈りもたくさんある。気にかけていることを伝える方法は他にもたくさんあるのだということも知っている。今の私には、わかりづらい言葉でそっと伝えるくらいしかできない。その臆病さをいずれは捨てたい。

ほんの少しの諦念を携えた願いが相手に届くとき、私もまた少し救われる。明日以降、もっと多くの祈りをたくさんの方法であらわすことができるようになりたい。そうして多くの人が少しずつ救われていく世界を作りたいと、夢みたいなことを考える。

情緒

キャベツ太郎

2月は3回も投稿したのか〜これで4回目になるな〜と思っていたら、もう3月だった。

3月って、なに? 卒業という大イベントらしきものが鎮座しているわりに、その意味合いと季節感とが大して関わりがないからか、その当事者であってもパッとしない月な気がする。本当にそうですか?

 

以下は状況と情緒の構造化のための、少々愚痴っぽい内容になっています。かなり支離滅裂。

 

私は自分のことを人格障害っぽいな〜と思っており、その要因は人格形成の時期における家庭内での健康なコミュニケーションの不足にある、とも思っている。

基本的に健康な家庭は「情緒的安全が保たれる場」として機能するが、私の場合そうではなかった。人格の受容という、社会的に安全な立場を許されるための目標はほとんど果たされず、また私の言動に対するリアクションの多くが合理性と連続性を欠いていて、信頼を置くあてがなかった。

そんな状況がどんな風にできあがるかというと、例えば、以前教わった通りにごみを分別すると、それが間違っていることを指摘される。違ったっけ? と確認すると、いつも全部人任せにしてるから分からないんでしょ、自業自得だ、と責められる。ちなみにそれは事実とは異なっているので、そんなことはない、と言い返す。すると、お前は嘘つきだと言われる。

第一に言動の矛盾。次に虚偽誤謬の押し付け。論点をすり替え、話題を抽象的にしながら私の非を指摘し、どんなに物覚えが悪く気の利かない出来損ないであるかを根気強く主張してくる。詭弁のオンパレードに反論は無意味だ。

学習成果と事実を無意味に否定する言葉を受け続けると、条件付きの信頼でさえ他人に寄せるのが難しくなる。「おかしいのはお前だけ」と見下され続けてみてください。たった一人にそれをされるだけで、本当におかしい気がしてきて、おかしくなってしまう。うまく記憶ができなくなっていく。こうして虚偽の「現実」を作り上げ自分に付していく癖がつき、他人に見せようとする像と現実の自分との乖離が激しくなっていった。

苦しみながら言語化する努力を続けたので、不幸にも私はこれらを正しく自覚することができ、あくまで感情的にならずに問題の構造を理解し、健康を害する手段に頼らずに済んだ。ただ、信頼感情に関してはおそらく一生克服できないだろうと思う。

彼女の努力の甲斐あって、私はそこそこの加害欲求を持ちながらもこれを理性で抑え込みなんとか普通の顔をして生活できる人間に育った(他人の目に触れる場で言える最大の皮肉。事実でもある)。こうなると当の本人にド正論をぶちまけて論破することも不可能ではないのだが、私は人の尊厳を傷つけるようなことは言いたくない。しかしそれは私が傷つき続けなければならない理由にもならない。

なぜ私だけ彼女の癇癪に付き合い続けなければいけないのか? 以前「年を重ねていても加害欲求を抑えられない人はたくさんいる。愚かだ」と話していたが、それはあなたにもあてはまるのではないのか? 私が自分を肯定する力を育て切れなかったのはあなたのせいではないのか?

少し前に、言葉足らずなまま和解を試みようとしたとき、そのとき初めて意思疎通がとれたと思ったのは勘違いだった。私の主張なんか受け止めてもらえるはずがなかった。

私を見ている人がどこにもいない。言いたくないけど本当に泣きそうなのに、それを知っている人がいない。世界に期待などできなくなっている人間に、気にすることなんてないよとのたまう人が大勢いる。私の能力について勝手に評価するな。私の外見について勝手に評価するな。私がどういう気持ちでものを考えてきたと思ってるんだ。こんなに生きることに真剣でズタズタになってるのに、人に媚びたりできるわけない。

 

意思疎通ができればもうなんでもいいので、私と友達になってずっと仲良くしてください。